数年前、ロシアを旅した時に、サンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館で、オランダの画家レンブラント(1606-1669)の作品「放蕩息子の帰還」を見てきました。
父と子の再会の姿からは、深い静けさと安らぎ、慈悲が感じられて、心の奥に染み渡っていくようで、とても感動しました。
この絵の主題は、新約聖書のルカによる福音書で語られている放蕩息子のたとえ話から来ています。
秘儀的なキリストの教えの中では、放蕩息子の物語は人間の旅路を象徴していると考えられています。それは、私たち一人ひとりの魂の旅路です。
私はどこから来て、どこに向かっているのか。
福音書に描かれた物語は、その道を示し、また私たちの内側に問いかけています。
私はどこから来て、どこに向かっているのか。
冬至に向かう今の時期は、内側を見つめ、普段よりも内省的に過ごしやすい季節。
魂の旅路を思い起こしながら、心静かに過ごす時間を取ってみるのも良いかもしれませんね。
放蕩息子
また、イエスは仰せになった、「ある人に二人の息子があった。弟が父に向かって言った、『お父さん、わたしがもらうはずの財産の分け前をください』。そこで、父は資産を二人に分けてやった。いく日もたたないうちに、弟はすべてをまとめて、遠い国に旅立った。そこで放蕩に身を持ち崩し、財産を無駄遣いしてしまった。すべてを使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こり、彼は食べる物にも困るようになった。そこで、その地方のある人の所に身を寄せたところ、その人は、彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べる蝗豆(いなごまめ)で、空腹を満たしたいほどであったが、食べ物を与えてくれる人は誰もいなかった。そこで、息子は本心に立ち返って言った、『父の所では、あんなに大勢の雇い人がいて、食べ物があり余っているのに、私はここで飢え死にしようとしている。そうだ、父のもとに行こう。そしてこう言おう、〈お父さん、わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。もう、あなたの子と呼ばれる資格はありません。どうか、あなたの雇い人の一人にしてください〉』。そこで、彼は立って父のもとへと行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父は息子を見つけ、憐れに思い、走り寄って首に抱き、口づけを浴びせた。息子は父に向かって行った、『お父さん、私は天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。もうあなたの子と呼ばれる資格はありません』。しかし、父は僕たちに言った、『急いでいちばん善い服を出して、この子に着せなさい。手には指輪をはめ、足には履き物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を引き出して屠りなさい。食事をして祝おう。この子は死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったのだから』。
(新約聖書 ルカによる福音書15章11-32節)
※「新約聖書 フランシスコ会聖書研究所訳注」より引用。
(2018年12月7日)